1970 アイゼンハワー大統領の孫デビッド・アイゼンハワー教授とジュリー夫人(ニクソン大統領の長女)とが来日され、明仁皇太子殿下がご夫妻と日米の夫妻10組を府中の競馬見物にご招待され、宮内庁の苽生次長に同行させていただき、この出会いが50年後安倍首相がホワイトハウスでメアリー・アイゼンハワーさんと会われメアリーさんが日米安保条約60周年記念式典に主賓として出席されるきっかけになる。(資料) 1982 デンソーアメリカの天野会長から駐在員と家族の緊急時の対応につき相談を受け、緊急時に24時間対応・100言語で援護する『JAN安心サービス』を開始、その後ケンタッキー工場の製造開始時に天野会長からTOYOTAの張富士夫工場長(後の社長)を紹介されてTOYOTAの安心サービスを開始それに続き三菱マテリアル、日産、アイシン、近鉄旅行,NTA,,など大手150社以上に提供。(資料) 1985 ロサンゼルスの補習校あさひ学園の吉田校長と訪日し松永光文部大臣と会見し、駐在員の子弟が帰国後小学校から大学まで受け入れてくれる学校が少ない問題を説明、大臣は対策班を立ち上げ数年後海外在留者の子弟を受け入れる学校を増やし大学は東大を含め多くの公私立大学に優先入学出来る様になった。(資料) 1989 日米通商会議出席の一行がロサンゼルス空港で5時間待ちになったと松永通産大臣から急遽招かれ会議出席の主要参加者を紹介され会談する。 1992 USC(南カリフォルニア大学)岩城教授から次期アメリカ大使になるモンデール元副大統領から在日アメリカ市民の医療の問題に付き相談されたとお聞きしてモンデール大使就任直後医師でもある中山太郎外務大臣、モンデール大使、岩城教授のミーティングを設定。 1993 留学生の服部君射殺事件でテレビ局など各社が我が社JANに殺到し報道されホワイトハウスの大統領補佐官から意見を聞かれクリントン大統領に厳しい意見書を送り感謝の手紙を頂く。(資料) 1993 明仁天皇陛下初のご訪米がサッカーのワールドカップと重なりロサンゼルス周辺のホテルが4年前から予約で満杯、宮内庁他各省庁、報道関係者など60室の確保が不可能 急遽一行の総責任者中山外務大臣が訪米され会議では結論が出ず最後に私に協力するよう頼まれて『可能性はほぼ無しと』お伝えして翌日ご希望のホテル3軒のホテルのGMを説得。結局、第一候補のビバリーウィルシャーホテルを確保、万歳!(資料) 1994.1 世界各国の日本大使館、領事館閉館時の緊急通報の対応代行業務のサービスの実施前の試行サービスをロサンゼルス総領事館で開始し、後に全米の後カナダ、欧州から全世界に拡大。(資料) 1994.1 カリフォルニア州のバーバラ・ボクサー上院議員より長年州民の安全に対しての助言に対しての礼状を受ける。(資料) 1994.2 カリフォルニア州のダイアン・フアインシュタイン上院議員より銃犯罪の問題に対する長年の助言に対しての礼状を受ける。(資料) 1994.7 宮沢首相やキッシンジャー国務長官など日米の主要政治家が学生として参加された日米学生会議の学生をワシントンの大使公館に招かれ齊藤邦彦大使から私と長女由佳を紹介される。 1994.11 レーガン大統領フリーダムアワードをイスラエルのラビン首相が受賞され授賞式にはコリンパウエル元帥(後の国務長官)アラフアト議長など多くの歴史的人物が列席、私の席にはJBAの天野会長、登総領事、アーンスト・ヤングの佐野氏各夫妻が同席。私と出席した長女と隣の大統領のテーブルに行きナンシー夫人に大統領の孫のマイケルレーガンのクラスメートの長女由佳を紹介。(資料) 2001 アメリカ旅行業界をリードするTIA アメリカ旅行業協会より海外からの旅行者の安全の為に長年貢献してきた事に対し業界最高の栄誉オデッセイアワードを受賞。(資料) 2004 上院委員会よりリーダーシップアワードを受賞。(資料) 2004 上院委員会よりビジネスマンオブザイヤーの賞を受賞。いずれの賞状もその後1年間は議会に飾られた後に贈られるとの説明を受け一年後に受け取る。(資料) 2005.1 ブッシュ大統領ビジネス諮問委員会よりカリフォルニアの委員に任命される。(資料) 2005.7 7月にはワシントンの大統領商業委員会の会議と大統領主催の昼食会に招待される。(資料) 2009 ロサンゼルスカウンティ弁護士会から顧問に任命される。